高等科能楽鑑賞会

2月19日(月)に観世能楽堂で高等科能楽鑑賞会が開催されました。
はじめに能のシテを演じてくださる山階彌右衛門先生より解説をいただいた後、仕舞「夕顔」「浮舟」、狂言「二人大名」、能「葵上」の演目が上演されました。
以下に、高1の生徒8名の鑑賞文を掲載いたします。

「本物に触れる」。今回の能楽鑑賞会では、普段の授業では味わうことのできない、まさに「本物」の日本芸能を体験することができた。事前講義では、能とはなにか、という基本的な知識から、能の歴史や演目の背景まで、魅力が凝縮された興味深いお話をたくさん拝聴した。調べ学習や授業など、様々な過程を踏まえた上での鑑賞会であり、大いに楽しむことができたと感じている。

なかでも心に残っていることの一つ目は、役者の方の動きと声である。ゆっくりとした動作であるからこそ、その一つ一つの動作にじっくりと見入ってしまった。指先からつま先までのすべての動きが、繊細かつしなやかな力強さを持ち合わせたものであるため、厳かな空気に包まれていた。竹西寛子さんの『衆人愛敬』という文章にもあった通り、小さな動きに多くのエネルギーが感じられ、また、「動」だけでない「静」という空白があるからこそ、退屈せずに余韻も楽しむことができるのだと思った。そして、その張り詰めた空気を打ち破るように響く、お腹の底から出された声にも圧倒された。
次に二つ目は、楽器の音色である。今まで私は、能の音楽は単調であるというイメージを持っていたが、よく聴いてみると実際は思った以上にリズムが複雑であって驚いた。自分の席が舞台から近かったため、細かい手先の動きなども見ることができ、より一層楽しむことができた。リズムだけでなく、一つ一つの音色も決して一定なものではなく、特に強と弱が交互に繰り返される旋律が印象的だった。
三つ目は、能面である。調べ学習で学んだ通り、一つの面から様々な感情が読み取れ、予想以上の表情変化に驚いた。面をかけた役者は自身の表情を見せないため、その能面に役のすべてを詰め込んでいるのではないかと感じた。
四つ目は、鑑賞会が始まる直前の科長先生のお話だ。「日本の芸能には型があるとされている。しかし、型があるから個性が現れないという訳ではない。長い修行を通して型に向かううちに、多くのものをそぎ落とすからこそ、残ったものに個性が存在する。」といった新聞記事の内容を紹介してくださった。そして私は、これを実際に感じることができた。『葵上』の終わりの場面には「読誦の声を聞く時は」で始まる地謡がある。事前講義で紹介してくださった林本先生の地謡と、鑑賞会での地謡とでは違いがあることをはっきりと感じた。能楽が同じ演目であっても何度も楽しむことができるというのは、例えば次の音をどのくらい下げるかが謡う人によって違うなどといった、表現方法の違いの面白さによるものだと思った。
そして最後に「日本を知る」ということの重要さだ。林本先生の「自分が自分の家族についてよく知っているように、日本人が日本の芸能を知っているということは当たり前。」という言葉が印象的で、個人の好き嫌いにかかわらず、「知る」ということを続けていかなければならないと思った。そして、国語の授業で先生がおっしゃったように、古びてしまうのを防ぐため、あるいは後世に伝承していかなくてはいけないから、という理由で学ぶのではなく、好奇心を持ち続けながら学ぶことを大切にし、今自分が夢中になっているものや、自分が創り上げていくものに活かしていきたいと思う。

「角が出るのは女性の鬼だけである。人に裏切られた時、悲しみや妬ましさから般若になるのだ。」
事前講義の際、林本先生はこうおっしゃいました。悲しみや妬みが入り混じった怒り――まさに六条御息所の心情そのものです。私は『葵上』の鑑賞をする中で、この六条御息所の心情がどのように能面に現れるのかということに特に注目していました。

物語前半、シテは泥眼の能面をつけ、手を顔の上にかざして(悲しみを表して)登場します。少しずつ自分自身のことを話していくうちに、今まで心の中に溜まっていたストレスや立場のこともあり、表に出すことのできなかった怒りが込み上げてきます。手を何度もかざしていたため初めは「悲しみ」が100%表れていましたが、謡と囃子の勢いが増して行くにつれ、自然と怒りも見えてきました。
物語後半、ついにシテは般若の面をつけて勢いよく現れます。前半よりも大きな音、速いスピードで足拍子をしながら、小聖との戦いに臨みます。音楽も激しくなっていきますが、私はそこで気づいたことがありました。
般若の動きに、「静」と「動」の共存を感じたのです。例えば「怒る」「戦う」といっても、暴れだしたり物を投げたりといった動作は一切していません。前半よりも「動」の動きが多いのは明らかなのですが、「静」も見える怒りと言うことができます。そこには、六条御息所が高貴な身分であるからこその上品さ、また、昔は美しかった自分が今ではこのような醜い顔つきになってしまったことからの悲壮が存在していました。般若の姿であるといっても、六条御息所の心情は「怒り」だけでも、はたまた「悲しい」だけでも表すことができません。入り混じって共存しているのです。それは動きだけでなく表情にも表れており、あの能面一つで様々な感情が自然と観客に伝わってきました。
段々と物語が進んでいくにつれ、六条御息所の「怒り」と「悲しみ」の割合は変わっていきます。後半では「動」の動きは多かったですが、前半でも足拍子や小走りなど、「動」の動作は同じように存在していました。それでも後半の方に「動」を強く感じたのは、シテが初めから六条御息所の心情を考えて、その割合を変えていたからなのだと考えます。
全てが計算し尽くされた日本の伝統芸能、「能」。その幽玄さの奥底にあったのは、能楽師の徹底された作品への配慮と思慮の深さであるということに気付かされました。

銀座の華やかなショップ街を通り抜けると、一変して厳かな雰囲気に包まれた場所に観世能楽堂は佇んでいました。中に入り、すぐ目に留まったのは松でした。松は神様を象徴しているとのことで、身が引き締まるような思いで一歩ずつ歩いて行きました。

私は中学一年生の頃から四年間仕舞部に所属し、金春流能楽師の先生からご指導を受け日々お稽古をしています。今回の鑑賞会は観世流の能楽師の方々でしたが、同じ仕舞でも流派によって違いがあるということを改めて体感することができました。例えば、仕舞には「差し開き」、「差し回し」などの基本的な型があります。金春流では一つ一つの型を力強く、ゆっくりするようご指導を受けていますが、観世流は対照的にあまり力を入れておらず、柔らかな印象を抱きました。また舞だけではなく、謡においても省略や付け足しがあり謡い方も異なっており、新鮮な気持ちで仕舞を楽しむことができました。
今回能楽を鑑賞した当初は、観世流と金春流の違いに戸惑い、違う点ばかりに目を奪われていました。しかし、鑑賞後改めて振り返ってみると、所作の違いはあるけれど、能に対する考え方は流派を問わず同じであるように感じました。事前講義で林本先生は、「能楽師は、何十年と稽古を積み重ねることで様々な物が研ぎ澄まされ、基礎だけではなくその人自身の個性が現れていく」とおっしゃっていました。同じことを金春流の先生もご指摘されています。大事なことは、基礎をしっかり学んだ後に生み出される個性。
先日授業で「不易流行」とは、昔からある本質的な物の中に新しく変化を重ねていく考えであると学びました。不易流行は芭蕉の俳諧理念ですが、この考え方は能や茶道、華道など日本の伝統文化に存在する流派に当てはまるのではないでしょうか。一つの日本の伝統文化に個性を重ねることによって生じた様々な流派。
「不易流行」についても考えさせられた能楽鑑賞会でした。

今回初めて能楽を鑑賞して、私が一番面白いと感じたのは、『葵上』は炎のような演技ではなく、天井の煤のような演技であるということです。鑑賞会のはじめに山階先生がこの話をしてくださったので、「煤のような演技」とはどういうものなのか、実際に体感してみたいと思って鑑賞することにしました。

実際に『葵上』を観た中で最も印象に残ったところは、六条御息所の怨霊の手でした。舞台からとても近い席だったため、手の細かい動きまで鮮明に見ることができました。事前講義で「泣き」の動作を教えていただいたので、泣きの動作に注目して観ていたのですが、顔の前に持ってきた手の一直線に伸びた指先からは御息所の悲しみだけではなく、葵上に対する恨みなども手の細かな震えから感じ取ることができました。また、泣いて顔の前に持ってきていた手を下に下す所作では適度な脱力感が見受けられ、悲しみだけでなく過去と今を比べての絶望感などの様々な感情が感じ取れるような気がして、なんとも不思議な感覚に陥っていました。
そして鑑賞していて一つ疑問に思ったのは、「足音」の役割です。能楽は静寂を大事にしているため、当然足音にも様々な意図が込められているのだと思うのですが、実際に観ていて、摺り足のような時でも足音を立てて歩いていることがあり、どのような場面で足音の使い分けがなされているのか、疑問に思いました。一方で御息所が般若となり再び登場した場面では、足音も全くせず気配も消されていて、気がついた時には横に般若が立っていました。この時は足音がないからこその恐ろしさを感じ取ることができました。
このような事を感じ取りながら『葵上』を鑑賞して、「煤のような演技」とはどのようなものなのかという問いに対して私が導き出した答えは、「内面から溢れる怒りを外に出さずに表現する演技」です。炎のような演技であれば、怒りや恨みが所作にも全面に現れていくのではないかと思いました。一方煤のような演技であれば、煤で真っ黒で元々の赤い姿が想像できなくとも匂いなどで炎の存在がわかるように、演技でも怒りなどを全面に表現するのではなく、手などの細かい所作から自然に思いが伝わってくるような演技をしているのではないかと思いました。

能が始まると、その瞬間からその場の空気が一気に変わったのを感じた。物音ひとつ聞こえず、緊張した様子は静寂そのものだった。静けさの中から響き始めた小鼓と大鼓の音色や体全体から響き渡る謡、そして、しなやかさや力強さのある舞の全てがひとつとなって全てが噛み合い、お話が表現されて美しかった。

今回の鑑賞会では最前列から能楽を観せていただき、能面のお顔をじっくりと見つめていたところ、同じ能面でも場面によっては怒って見えたり、悲しんで見えたりと、見え方が様々で、その人の感じ方によって変わることに、能の表現の幅広さを感じた。演者の方がゆっくりと繊細に舞い、その演じる姿にも重みがあり、体の全身に神経を張り巡らされたかのようであった。その動きや間には、言葉では言い表せないような奥深い世界観があり、初めて能楽を鑑賞した私が果たしてこのことについて語っていいのかはわからないが、これこそが「幽玄の美」なのかもしれないと感じた。そして、気づけばその音の響きに引き込まれ、一つ一つの動きをじっと見つめ続けていた。
その中で、私は常に何かに追われ、心に余裕を失いかけ、物事の表面ばかり気にするようになりつつある自分自身の存在に気がついた。最近では、時間の節約や作業の効率化などが求められ、いかに物事を効率よくできるのか、結果に結びつけられるのかが重要視されている風潮にある。そして、私自身、忙しい日々を過ごし、毎日見えない何かに追われ続けているという感覚があった。しかし、能の緩急のある動きや間、繊細な世界を実際に感じ、心が解放されていくような気持ちになった。なぜそのように感じたかはうまく言葉にして言い表すことができないが、能の持つ奥深い世界観は、物事に対する新たな価値観を教えてくれたような気がする。この目に見えたり、この手で掴めたり、この口で表現できたりするものだけが、この世界の全てではないと感じた。見えないけれど、実は広大な素晴らしい心の世界が広がっている。表面的な目に見える部分だけでなく、その奥底にあるものを大切にしていきたいと思った。

山階先生のお話の後に始まったのが、仕舞の『夕顔』と『浮舟』だ。一挙手一投足から文字通り目が離せず、繊細で細やかな足の運びや指先にまで意識が向いているのだろうとわかる丁寧さ、そして何よりも腹の底から、まさに心に訴えかけ揺さぶってくるかのような声が印象的だった。

狂言『二人大名』は、二人の大名が通りがかりの男に無理やり供をさせようとし、それに腹を立てた男が大名たちに物真似をさせたり着物を奪ったりする話である。二人の大名の「危ないわいやい、危ないわいやい」という台詞や、台詞がない時に正座をして人形のようにしている姿が面白かった。
休憩を挟んで始まった能楽『葵上』は、その日私が最も楽しみにしていた演目だ。能役者の方が台詞を口にした瞬間から、空気がガラリと変わって息の仕方を忘れるようだった。生まれて初めて体験する感覚だった。周りが見えず、ただひたすら舞台に、演者の方にだけ意識が向いていた。
私たちは、この能楽鑑賞会の前に国語の授業で『衆人愛敬』という文章を読んだ。その中に、次のような文がある。
「能を演じる者は、程度の低い観客の目をも、おのずから開かせるほどの演技をせよというのは、低級なる観客への媚びではなく、真の平安を彼我で経験するための、役者の自戒の必要をいったものと思われる。」
あの日の私は、まさにこの「程度の低い観客」だったのだろう。一度も実際に能楽を観たことのない素人だと言えるし、さらに言ってしまえば事前講義を受けることもあまり乗り気ではなかったのだから。しかし、あの日実際にテレビ越しではなくこの目で見て耳で感じた、直接でないと絶対に伝わることのない気迫や、息を忘れるほどに引き込まれる空気感は、何度ビデオで観たとしてもそれだけで理解するには到底かなわない。生で観ることができたことは間違いなく貴重な体験だったのだと改めて思う。そして能楽への知識が雀の涙ほどしかなかった私がこれほどに強く感動したのも、すべては役者の方の演技や能楽に対する思い入れの深さによるものだと気づかされた。

現代の日本では、高校生のこの時期に本物の能楽に触れたことのある人は少ないだろう。私の知り合いなどと話していても「歌舞伎は観たことあるけど、能はね......」という方が多い印象を受ける。私も仕舞部に入部するまでは同じ気持ちだった。仕舞を舞う上で次第にわかるようにはなってきたものの、それでもなぜそんなに人の心を何百年も惹きつけているのか、不思議ではないと言っては噓になる。

ではなぜ何百年もの間、能楽が受け継がれてきたのか。
授業では、能とは流行を取り入れつつも伝統を重んじるものであると学んだ。事前講義で観世流の林本先生がおっしゃっていた「能は抽象的なもの」ということもこのことに繋がるのではないかと考える。抽象的かつ中間の表現をすることで、流行を取り入れなくても見る人それぞれによって流行を感じさせることができる。「能はミュージカル」。しかしミュージカルより自分で想像することが多い。このことが何百年もの間能楽が受け継がれる理由の一つであると思う。
二つ目は、能役者が表情で芝居をしないことである。能面という道具を使って表情を表現する必要がある。能面の角度によって喜怒哀楽を表現するというが、身体の少しの動きが重要だろうと思う。林本先生に「舞っていて好きな演目はなんですか」とお聞きしたところ、「昔は鬼とか激しい動きのものが好きだったが、今は井筒や葵上のような少しの動きで表現するものが好き」だとお答えになった。
「前へ前へ行きたい気持ちを抑え、ゆっくり一歩を踏み出す。その一歩で観客の方を感動させることの魅力に最近気づいた。」
私は男舞、鬼・神の仕舞を舞うことが多い。それは動きが激しく観ていても見栄えがするからである。ゆっくりと舞う女舞の魅力に少し気づいたのは高1の夏ごろだった。八重桜祭の演目として同輩と一緒に二人静を舞った。それが初めての女舞だった。舞うときに意識したことと言えば、謡も動きもゆっくりした中で、源義経のことを思って舞う静御前の内なる思いをどう表現するかということだった。少しの動きで女性の熱情を表現するその難しさ、極めてこそ観客に与えられる影響を、今回の能楽鑑賞会の『葵上』を観て肌で感じた。

鑑賞した中で一番印象深く、そして魅力的に感じたのは、様々なものに頼らず技術で能を魅せているところだ。現代のドラマと比較して考えるとどうだろうか。例えばドラマでは表情を変えることでその人物の考えていることや感情を繊細に表現することができる。さらに撮影するセットや場面、人物に合わせた衣装や道具を使ってそれがどんな場面なのか、どんな様子なのかを伝えられる。それに対して能は面をかけているので表情を変えても観客には見えない。小道具も最低限のものなので観客にわかるように自分の身体だけで表現して伝えなければならない。それに加えて動きづらい衣装、神経を使う動きをしなくてはならないのである。

実をいうと今まで私はそれを「不自由」だと感じていた。だが、鑑賞を通してその考えが変わったように感じる。能『葵上』で実際に見た小道具なしでの梓の弓の表現。表情がわからずとも切々と伝わってくる迫力や怒り、哀しみの感情。それらは、必要なものがないのではなく余分なものを排除していて、だからこそ本当に大事な部分にだけ注目するからこそ、それぞれの能楽師の表現あるいは鑑賞者の解釈に「自由」が生まれると感じた。

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